■ 第十四回 東方見聞録 マルコ・ポーロの旅

みなさん、マルコ・ポーロはどこを旅したかご存知ですか?
色々な人に質問をするとずーっと船で航海をしたように思われる方が多いです。13世紀にマルコ・ポーロは、イタリアのヴェニスからモンゴル帝国まで旅をしましたが一部船も使っていますが陸路で旅をしています。どこを通っていったご存知ですか?

ここ15年私が歩いた道にマルコ・ポーロゆかりの地が多いです。行く先々にマルコ・ポーロの痕跡を見ます。そこで、はるか彼方昔、シルクロードを通って大冒険をしたマルコ・ポーロの旅をご紹介したいと思います。



マルコ・ポーロ
Marco Polo / マルコ・ポーロ (1254−1324)

イタリアのヴェニス生まれのマルコ・ポーロが15歳のときにモンゴルのフビライ・ハーンに仕えていた父、二コロ・ポーロと父親の弟であるマテオがハーンの命によりエルサレムに行くためヴェネチアに帰国しました。マルコ・ポーロは、二人とともに1270年、ヴェネチアからパレスチナの海港都市「アークル」に行きキリスト教特使に面謁しキリスト墓前のランプから聖油をもらい受けるためエルサレムに行きました。2人はマルコを伴ってその聖油をもってフビライ・ハーンの国、「モンゴル」に帰還する旅をしました。

マルコ・ポーロは、モンゴルまでの往復の時間と滞在16年を含め26年にも及ぶ長い年月を諸国で過ごしたそうです。



モンゴル
マルコ・ポーロがヴェネチアを出て父と叔父と3人で目指したモンゴルです。
この地図は現在の地図ですがマルコ・ポーロの時代はもっと大きくヨーロッパ(ハンガリーあたり)にまで領土が及んでいたそうです。

ある時期、オスマントルコも今のトルコの大きさからは創造できないぐらい大きな領土を持って多くの国を支配したときがあります。今の世界地図では創造できない1つの民族が世界を治めることを夢見た時代です。今の時代では考えられませんね!



フビライ・ハーンの肖像画
  マルコ・ポーロが長年にわたって仕えた元の皇帝「フビライ・ハーン」の肖像画
 
  フビライ・ハーンとはどういう人だったのでしょう?

  ハーンとは、諸王中の大王(君主)と言う意味だそうです。1206年にモンゴル帝国を築き上げた チンギス・ハーンの子孫で1260年に第六代ハーンを即位する。1271年に中国大陸を治めていた金・西夏・南宋を征服し国号を「元」と改める。「大都」という世界一の都市を作りここには中国人、ヨーロッパ人、ペルシャ人、アラビア人、トルコ人アルメニア人、ユダヤ人が混じり住む国際都市でした。
フビライ・ハーンは、1294年丁度マルコの一行がコチカン姫をガザン・ハーンのもとに送り届けたとき40歳で亡くなりました。



当時のイタリアのヴェニス(ヴェネチア)の絵
この港から帆船で地中海を渡り、まずアークル(パレスチナ)に行き、エルサレム、ライアス(今のトルコのイスケンデルン)又、新しいローマ教皇に会うためアークルにもどりそこから馬に乗りながい冒険の旅が始まったそうです。
東ローマ帝国とペルシャ帝国(現在の近東トルコ、イラン、イラクの地域)の砂漠や草原で、いまシルクロードと呼ばれている道をモンゴルにむかって馬で進んで行きした。「 ケルマーン 」と言うところまで行くと陸路の砂漠を越えずペルシャ湾から船で海路を進もうと計画しました。



マルコ・ポーロのたどった道を記してある地図
ペルシャ湾の「 ホルムズ 」に着き船があまり良くないので海はあきらめ「 ケルマーン」に引き返し、らくだを買いキャラバンをくみ陸路を進むことにします。
パキスタンのシバルガン、バルク、タリカンを通りヒマラヤ山脈が連なるパミール高原を越えます。そして今の新疆ウイグルのカシュガルに着きます。
ヤルカンド、ホータン、チェルチェンなどのオアシスを経てゴビ砂漠へ。
シャーチョウ(今の敦煌)、カムール(今のハミ)そこから東スーチョウ、カンチョウ(甘州)、ニンシャ(寧夏)、黄河(ホワンホー)にそってテンドク地方(今の内モンゴル地方)を通りフビライ・ハーンのいる都「上都」に1274年 到着しました。

マルコ・ポーロは、ハーン宮廷に16年の長い年月仕えたそうです。



Web Siteで見つけたのマルコ・ポーロの通った道の地図
マルコポーロはハーンから彼の観察力が優れていることで信頼を受けハーンの支配する地方を旅行し色々なことを報告する使命を受ける。

昆明(雲南省)へと旅します。ビルマ、インドのベンガル地方、ラオスなどの話が書かれていますが実際には行ったわけでなく聞いたことを書いてあるようで実際は昆明までだったようです。カーンの特使として雲南にも6ヶ月ぐらい滞在したそうです。



新疆ウイグル自治区のカシュガルの町の郊外
新疆自治区の中で最も西ある町。メランジェの旅のシルクロード第一弾の企画で訪れたときの写真です。 この先がトルコに続く道でいつか機会があれば道をたどって陸路でトルコのイスタンブールへ行きたいね!とこの時一緒に旅した友人達と話したものです。



中国江蘇省の蘇州のクリーク(運河)
1289年ペルシャにある「イルハーン国」から元に使者がきて、アルグン・ハーンの妃にモンゴルの血筋の方を選びたいとの申し出をしました。これを機会にマルコ・ポーロはコカチン姫をイルハーン国に送っていきその後祖国に帰りたいとハーンに申し出、許しを貰う。

1290年末、大都を出発し「チュオチョウ」からマンジ地方へ、黄河を渡り、楊州まで下り揚子江を渡ります。さらに東南に進むと祖国ベニスと同じような運河の町「 蘇州 」に到着しました。きっと祖国を思い出しこの運河を通ったかもしれません。

私はこの町は毎年、春の碧螺春が作られる時期に訪れますが、この町でマルコ・ポーロの話をよく耳にします。



逝江省杭州(キンサイ)の西湖
ここも龍井茶で有名な龍井の井戸と地下でつながっていると言われている西湖のある場所で春に私は訪れることが多いところです。

マルコ・ポーロはここ南宋の首都のあったキンサイ(杭州)に行政官として1年ほど住んでいたそうです。
ここから福州を経てマンジ地方の東海岸の港、ザイトン(泉州)に着きここから出航します。数年前中国に「烏龍茶の故郷を訪ねる」という旅行に参加しました。この時ちょうど泉州のお寺の庭に「ザイトン」と呼ばれている真っ赤な花の木を見ました。この花の名前から泉州のことを「ザイトン」と呼ばれたと聞きました。



マルコ・ポーロが乗っていた船の模型
ザイトン(泉州)

マルコ・ポーロが乗っていた船の模型があった博物館。
この写真は、泉州の博物館で撮った写真で、いろいろな時代の中国の船の模型があり、同行させていただいた旅の主催者である、布目先生(故人)が大変喜ばれたのを懐かしく思い出しました。この博物館に行く前に中国で一番古い回教寺院(イスラム)を訪問しマルコ・ポーロの話をされその後博物館に行ったことを思い出します。

ここを1290年マルコ・ポーロは船でベトナム南部のチャンパから、ジャワ島、マラッカ海峡を通りセイロン島(今のスリランカ)、インドを回ってインド洋を経て20年前訪れたペルシャ湾の港町ホルムズに着きます。ここでコチカン姫を送り届ける。黒海のトラブゾンにでてコンスタンチノープルに渡りエーゲ海を通り1295年(41歳の時)ヴェネチアに帰り着いたそうです。1298年(44歳)に海戦に参加してジェノバの捕虜となり牢につながれ物語作家の力をかり東方見聞録を完成させたと言われています。

短い説明で多くの町を紹介できませんでしたがマルコ・ポーロの旅行記に聞いて書いた「黄金の国ジパング」が紹介されいろいろな冒険家が大航海時代を作り上げました。マルコ・ポーロは偉大なる影響をあたえました。
時間と体力が続く限り旅したいものですね!!



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