TEA and COFFEE Trade Journal

■ 1999年7月号掲載記事 /ヨークシャー・ティー

Introduction:

1998年3月11日、ロンドン商工会議所では、Bettys and Taylors of Harrogateがロンドンティー・オークション最後の入札を行いました。最後のオークションの前半に、ダージリンのマーガレッツホープ茶園の茶をいくらか購入しており、ジョナサン・ワイルド(Bettys and Taylorsの会長)は最後となる44kgのスリランカ、ヘルボッド茶園の茶を確保するため、Tetleys, Brooke Bond, Twiningsらより、高値をつけました。呆然とするような記録的な高値、1kgあたり_550です。トータルでは、_24,000にもなりました。この売買から生まれた利益は全て、チャリティーへ寄付されました。紅茶取引慈善基金などへです。クリス・ピンフォールド氏(BETTYのバイヤー)はこのように語ります。「Bettys and Taylors of Harrogateは今なお英国に残る、数少ない家族経営の茶商の一つです。ですから、茶貿易の300年以上の歴史の象徴となる茶の入札を行ったことは、本当に正しいことであったと思います。私達は単に、お客様に、歴史の一部分を味わってもらいたく、その思いに抵抗できなかっただけです。これは、非常に素晴らしい色と、実に大きな葉、そして独自の豊かな深みを持った最高のセイロン茶です。」

その翌日、ヨークにある、この会社が運営するティールームでは、お客達は、今まで出されたであろう茶の中で、最も高級な紅茶を、無料で楽しみました。カティ・スクワイアー(Bettysの代弁者)は、こう言います。『これは軽く、素晴らしい花のような芳香のする茶であると私達は聞かされています。しかし、お客様はそのように感じるか、その反応を見ることが必要です。うれしくも、みなさん、大変おいしいとおっしゃってくれました。』彼女は、会社はあの44kg分の茶を、一袋_10で売る予定だと語ってくれました。しかし、残りは後世に残すため、保存しておくということです。

歴史的にも意味のある1チェストのセイロン茶を獲得したことは、この会社にとって、また別のある象徴となりました。この会社は、ヨークの温泉地であるハロゲートで小さなお店から始まり、その後、ティールームをチェーン展開するに至った会社で、そこでは、パンも販売し、また、最高品質の紅茶、コーヒーを数多くそろえ、また、メイルオーダーによるケーキやビスケット、詰め合わせギフトや、ディナーPartyのギフトセット、チョコレート、クリスマス・プディング、紅茶、コーヒー、それを飲むためのセット、その他多くのギフトを世界中に販売し、成功をおさめているのです。

フレデリック・ベルモントの発想:

物語は、世紀が変わる頃、フレデリック・ベルモントがスイスアルプスにある家を出、菓子職人として、パリへ列車で向かったときに始まります。自分のビジネスを始めるという、夢に駆られ、彼は海峡を越え、南岸のイースロボーン或いはボーンマウスへ定住する予定で、イギリスへ渡りました。しかしながら、彼は一言も英語を話すことが出来なかったため、彼はまったく間違った駅から、まったく間違った列車乗ってしまい、その数時間後に、(驚愕して)自分がヨークシャーに居ることに気づいたのです。彼が予定していた場所から、はるか北の土地でした。しかし、ゴツゴツした丘、うねりのある田舎景色、澄んだ空気、これらが、彼の故郷スイスを連想させ、彼は、この地に住むことに決めます。

ベルモントは1919年に、最初のBettysカフェ・ティールームを開店しました。しかし、このBettyとはいったい誰なのでしょうか?真実が明かされることは決してないでしょうが、何年もの間に、いくつかの逸話がうまれました。ちょっとセンチメンタルな物語、医者の娘であったベティ、彼女は肺結核で亡くなってしまいました。その父の開業所、ハロゲートのケンブリッジクレッセントが、のちに、最初のベティのカフェ・ティールームになった、というお話です。また、別の説では、女王の母、エリザベス・ボウズ・リオンは世紀が変わる頃に生まれ、彼女がこのネーミングの由来だろうといわれています。多くの人々は、ベティ・ラプトン、“ハロゲート・ウェルズの女王”がベティの元祖である、またその一方では、このカフェの名前は、その当時有名であったミュージカルショウにちなんだものであるとも言われています。しかし、最も真実に近いと思われる説は、フェデリック・ベルモントの遠い親戚であった、少女、ベティ・ローズ。彼女は、最初の重役会議の通訳をし、会社は彼女の名をカフェにつけたのだといわれています。しかし、本当のベティについての秘密は、家族の中にしまわれており、また、カフェのメニューにはこのように書かれています。『たくさんの逸話や説が生まれていますが、神秘なものは、明かされない方が、よりいいのです。』

フェデリック・ベルモントの社交的で、温かみある人柄は、王室の愛顧と地元の人々の賞賛を得ました。1922年、新たにパン屋が建てられ、そこには、果樹園が併設されており、ベティ−のケーキやチョコレート、パンなどの売れ行き増大に寄与しました。『ヨークシャー・イブニング・ポスト』は次のように書きました。『大変素晴らしいケーキがあるのだが、その名前を説明するのに、通訳を雇わなければならない、Bouton dユOrs, Batenbergs, Ganache Meringues などなど。もしあなたが、このベティへ行って、バンを注文したとしたら、彼らはきっと警察を呼ぶでしょう。』

このカフェ・ティールームは1920年代に、瞬く間に広がり、その客層は、ヨーロッパからの“スマート・セット”と呼ばれる人々で、彼らは定期的にハロゲートへ水を取りに尋ねて来、その午後をベティで過ごしたのでした。アフタヌーンティーも、優美なケーキや上等のルーズリーフティーと共に出され、ロンドンでも、最も洗練されたホールから選ばれた、四重奏者の伴奏が、その華を添えました。1929年代30年代を通して、さらにカフェが、他のヨークシャーの町にオープンしました。しかし、ヨークの店が、この会社の一番重要な店でした。

名を馳せたヨークの店:

ヨークのベティの店でお茶を飲む人は誰もが、その優雅なアール・デコの様式に、心を奪われずにはいられませんでした。1930年代の代表的なデザイン、世界でも最も有名な汽船の一つ、“クウィーン・マリー”、発明、スピード、洗練などの、新しい時代を象徴していた船、これに影響を受けたデザインです。クナードの代表として作られ、1936年3月27日の、処女航海の準備が整っていた船。最初の乗客200名の中には、フェデリック・ベルモントと彼の妻クレアも含まれており、大成功を収めていたカフェの仕事のため、ほとんど取ることの出来なかった休暇を、大いに楽しむことになっていました。ベルモントはその船のデザインに、大変感銘を受けまたのです。最先端のデザイナーによる設計、著名な芸術家による絵画や彫刻に飾られ、50種を越す木によって作られたパネルや柱など。彼は、ニューヨークに上陸するまでに、すでに、彼の中の大いなる計画は始まっていたのです。彼は、ヨークの中心地、セント・ヘレナズ・広場に、カフェを作ることを決心していました。そしてそれは、クウィーン・マリーのエレガントさとスタイルを併せ持ったものにすることに決めたのです。

ヨークにはすでに多くのカフェやティールームがあり、ベルモントが選んだ建物は、荒れ果てた家具屋で、大変な修復作業が必要でした。にもかかわらず、彼は、その新しいカフェを今までで一番のものすると決め、費用は惜しみませんでした。ロンドン一の大工がヨークに招かれ、ベルモントがクウィーン・マリーで憧れた、木のパネルと柱を作りました。そして、1937年6月1日、(ちょうど、ベルモントがクウィーン・マリーがら降り立ってから1年後)、4階建てのお店がオープンしました。その店には、地下にオークルームがあり、店とカウンターが一階に、二階にはベルモントの部屋、そして最上階にはボール・ルームがありました。

ベルモントの甥、ヴィクター・ワイルドは、その開店当時14歳で、そのときのことを次のように覚えています。『それは大変豪華なものでした。みんな正装し、ロンドン市長や市の高官は、金の鎖を身につけていました。パーティーがボール・ルームで行なわれ、お昼であったにもかかわらず、クリスタルのシャンデリアや、やわらかな光のドーム型天井、サテンのカーテンなどの美しさを引き立たせるために、ヴェネチア風のブラインドがおろされていました。シャンペンやスピーチ、拍手喝さいやざわめき、そして輝かんばかりの優雅な人々に溢れていました。

1940年代以降:

大戦中は、ベティ−にとって様々な出来事のあったときでした。ヨークの店では、焼夷弾が屋根を突き破りましたが、地元の消防士によって、建物は守られました。

ベティ−のメニューも、戦争を反映していました。配給制度のおかげで、人々は変わったメニューを楽しみました。フィッシュケーキやコーン入りビーフハッシュなどです。ヨークティールームの地下のオークルームには、大変大きな鏡があります。(残念なことに、空襲によって被害を受けてしまいましたが。)その鏡には、戦争中ベティで紅茶やコーヒーを飲んだ、600人近くのアメリカやカナダの戦士の名前が彫られており、彼らは、危険な戦場へ出発する前に、こうして鏡に名前を彫ったのです。 1960年70年は、会社にとって、とても躍進的な時期でした。1962年、ベティはコーヒー紅茶会社を、ライバル社であったTaylorから買い取りました。今日、このTaylors of Harrogateは、ベティへ選び抜かれた紅茶やコーヒーを卸し、繁栄しています。

Taylors of Harrogateは1886年にチャールズ・テイラーによって設立されました。彼は、ロンドンの紅茶会社の間に立つエージェント時代、紅茶取引の経験の富みを得たのです。彼は、多くの水の違いに気づき、そしてそれが紅茶の出かたに深くかかわっており、その土地にあったブレンドをすることが最も重要であると、気づきました。ベティがカフェの運営に専念していた一方で、テイラーは土地の水にあったブレンドを作り上げることに、決意しました。ここから、英国でもトップ銘柄である、“ヨークシャー・ティー”が生まれ、この銘柄は現在、毎日8万カップも飲まれています。

1980年代90年代はベティが注目され、賞賛を集めた時期でした。ベティが様々な栄誉ある賞、最優秀ティープレイス、最優秀菓子&ベーカリー、全国トレイニング賞、カイトマーク(英国標準企画協会)投資家賞などを受賞したのです。そして、ベティが創作焼き菓子賞を受賞した際には、400種以上もの菓子が、伝統的な手作り法で作られました。毎日、ケーキ、ビスケット、チョコレート、パンなどが、目を引くベティのトラックで、ヨークシャー全域の店に出荷されました。パン職人が、伝統的なヨークシャーのパンや大陸風のパンなどを作り、その一方で、菓子職人が、フルーツケーキ、マフィン、スコーン、ビスケット、メレンゲ、ヴァニラスライス、塩味のものなどを作りました。

ベティとテイラーは、フェデリック・ベルモットの子孫が経営しており、スイスの影響が色濃く残っており、スイスのLUCERNEには菓子学校であるリシェモンカレッジがあります。今日では、Harrogate, York, Ilkley, Northallertonなどにカフェティールームがあり、また、テイラーのティールームも、ヨークのべティーの店からすぐのところにあります。

1990年、Taylors of Harrogateは世界中に1万本の木を植えると、約束しました。会社は、ゴールへの道を順調に進んでおり、環境保護団体の、OXFAM, World Vision, 英国自然保護基金、ナショナルトラスト、などの援助を受けていました。ヨークシャーティーを愛飲している人々のおかげで、茶やコーヒー生産国である、エチオピア、インドネシア、インドなどの国、そして英国に、木が植えられました。毎年、この会社は_1000,000を森林保護団体などへ寄付しています。Taylorsは常に、自らが持つ地域への責任を認識し、毎年、従業員達はその次の12ヶ月間、支援したい団体の投票をするのです。多硬化症協会、スターライト子供組織、地元の病院やホスピスなどが過去に選ばれました。毎年、会社は約_30,000の寄付を選ばれた基金へしています。

慈善活動に付け加えて、Taylorsは地元の小学校、中学校、特別学校、大学などに専門技術を提供し、役立てています。小さい子供用には、バン工場のツアーを企画し、パンやお菓子が実際に作られる様子を、見ることが出来るよう、そして、食べられるようにしています。

また、地域のスポーツ活性化に関しては、ヨークシャー・クリケット・クラブのスポンサーとなりました。ヨークシャーティーは、2000年の終わりまで、このクラブの正式スポンサーなのです。

ベティーは、今日、その大変独創的な組み合わせ、伝統的なものと大陸風のもの、で、とても有名です。そしてまた、その、素晴らしい紅茶とコーヒーとでもです。彼らは、自分達の成功は次のことを最も重要だと考えていたからだといいます。「もし、私たちが、正しく適切にしたいのなら、自分たちでしなければならないということである。」

お客たちはとてもはっきりと、その品質を見極め、そこからまた、いくつかの記憶に残る言葉が生まれてきました。

『ヨークシャーには、いくつものカフェがあるが、ベティほど、ケーキやティーブレドが夢で溢れたカフェは他にありません。』

私と友人は、ベティが何か、がっかりさせるようなものを出すことがあるのか、確かめようとチャレンジしました。しかし、そのヨークシャー滞在中、私たちは、そこに日に何度も食事を取ることになったに過ぎませんでした。専門家は、ベティは完全なティールームの形に最も近い、と認めています。

『ベティを訪れることは、あなたの英国を呼び起こします。そこに座り、窓の外を眺めると、あなたは、赤いツリウキ草、白のペチュニア、青のロべリアのハンギングバスケット越しに、人生を(生命を)見つめることが出来るでしょう。この花たちは、世界を色づかせ、クリームティーを頂いた後に外へ出てみれば、全ての刺々しさがほんの間、和らぎ、薄れていくでしょう。そして、古き良き日の英国の美が、豊かにとけあい、洗練された華麗さとなって、そして、様々に調和し、あなたの元に戻ってくるでしょう。それは、もう二度と戻らないと思われていたものなのです。』

本文は『TEA&COFFEE TRAE JOURNAL/vol.171/No.7 1999年7月号』より・・・

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